幼少期③ [自己紹介]
遊ぶのはいつも同じ10号棟の子息達です。
夏休みも10時になったらお互いの家に出入りしました。
ですから、毎年転勤で友達が去っていくのがとても辛かったです。
そして次は自分の番になった訳です。
3回目の引越し、4箇所目の土地です。
(ここまでが前回の内容です)
小学校3年生の時、会社の方針で持ち家制度が始まりました。
人事労働畑だった父は率先して家を買おうと動き出しました。
”先ず隗より始めよ”だったんだと思います。
せっかく出来た友達とも別れた、千葉県千葉市に家を建てました。
ここが父の終の棲家となりました。
しかし、連日午前様だし10年以上単身赴任してましたので、家で寛げたのは晩年最期の3年間だけでした。
本当にご苦労様でしたと言いたいです。
さて、転校した小学校は最悪でした。
学校の周りには県営住宅が広がっていて、低所得世帯の溜り場でした。
ですので、学校のレベルも低く、ガラが悪くて馴染めませんでした。
木更津では特権階級張りの生活でしたので、奈落の底に突き落とされた感じでした。
連日ブルーな気持ちで登校しますので、友達もなかなか出来ませでした。
そんな中、救いの手が差し伸べられました。
(つづく)
夏休みも10時になったらお互いの家に出入りしました。
ですから、毎年転勤で友達が去っていくのがとても辛かったです。
そして次は自分の番になった訳です。
3回目の引越し、4箇所目の土地です。
(ここまでが前回の内容です)
小学校3年生の時、会社の方針で持ち家制度が始まりました。
人事労働畑だった父は率先して家を買おうと動き出しました。
”先ず隗より始めよ”だったんだと思います。
せっかく出来た友達とも別れた、千葉県千葉市に家を建てました。
ここが父の終の棲家となりました。
しかし、連日午前様だし10年以上単身赴任してましたので、家で寛げたのは晩年最期の3年間だけでした。
本当にご苦労様でしたと言いたいです。
さて、転校した小学校は最悪でした。
学校の周りには県営住宅が広がっていて、低所得世帯の溜り場でした。
ですので、学校のレベルも低く、ガラが悪くて馴染めませんでした。
木更津では特権階級張りの生活でしたので、奈落の底に突き落とされた感じでした。
連日ブルーな気持ちで登校しますので、友達もなかなか出来ませでした。
そんな中、救いの手が差し伸べられました。
(つづく)
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